多治見市制80周年記念 収蔵記念展「やきもの入門-多治見の古代中世編-」、多治見市文化財保護センターで開催中 [東美濃のミュージアム]
岐阜県多治見市にある多治見市文化財保護センターにおいて2020年8月3日(月曜日)から12月25日(金曜日)まで、多治見市市制80周年記念 収蔵品展「やきもの入門-多治見の古代中世編-」が開催されています。
~ 多治見市文化財保護センター(岐阜県多治見市旭ヶ丘10-6-26)。
・企画展名:やきもの入門 -多治見の古代中世編-
・会 期:2020年8月3日(月曜日)~12月25日(金曜日)
・開館時間:午前9時~午後5時(最終入館午後4時30分)
・休館日 :土・日・祝日
・入館料 :無料
・開催場所:多治見市文化財保護センター
多治見市文化財保護センターのウェブサイトを参照すると、今回の収蔵品展「やきもの入門-多治見の古代中世編-」について次の案内文が載っています。
~ 収蔵品展「やきもの入門-多治見の古代中世編-」の会場。「須恵器」、「灰釉陶器」、「山茶碗」および「大窯」の4つのセクションに分類して展示が行われています。
それでは、「大窯」のセクションに展示されていた天目茶碗をご覧ください。
~ 銅緑釉天目茶碗(滝呂日影1号窯出土、16世紀代)。
~ 天目茶碗(小名田窯下窯出土、16世紀代)。
~ 天目茶碗(滝呂日影1号窯出土、16世紀代)。
~ 天目茶碗(妙土窯出土出土、16世紀代)。
~ 多治見市文化財保護センター(岐阜県多治見市旭ヶ丘10-6-26)。
・企画展名:やきもの入門 -多治見の古代中世編-
・会 期:2020年8月3日(月曜日)~12月25日(金曜日)
・開館時間:午前9時~午後5時(最終入館午後4時30分)
・休館日 :土・日・祝日
・入館料 :無料
・開催場所:多治見市文化財保護センター
多治見市文化財保護センターのウェブサイトを参照すると、今回の収蔵品展「やきもの入門-多治見の古代中世編-」について次の案内文が載っています。
多治見市は古代からやきものの産地として知られています。古くは八世紀の須恵器から始まり、灰釉陶器や山茶碗などの窯が市内に点在し、広く国内に流通していました。今回の展示では須恵器から桃山陶に至るまでの多治見の収蔵品を展示し、ご紹介したいと思います。
~ 収蔵品展「やきもの入門-多治見の古代中世編-」の会場。「須恵器」、「灰釉陶器」、「山茶碗」および「大窯」の4つのセクションに分類して展示が行われています。
それでは、「大窯」のセクションに展示されていた天目茶碗をご覧ください。
~ 銅緑釉天目茶碗(滝呂日影1号窯出土、16世紀代)。
~ 天目茶碗(小名田窯下窯出土、16世紀代)。
~ 天目茶碗(滝呂日影1号窯出土、16世紀代)。
~ 天目茶碗(妙土窯出土出土、16世紀代)。
「美濃桃山陶」、美濃焼が最も輝いた時代 -(4)荒川豊蔵と林景正の作品- [東美濃のミュージアム]
♪ 「美濃桃山陶」、美濃焼が最も輝いた時代 -(3)国指定史跡「元屋敷陶器窯跡」- の続き
志野陶片を発見した久々利大萱において 荒川豊蔵さん(1894~1985年)は1933年(昭和8年)、作陶活動を始めました。
桃山時代以降途絶えていた志野と瀬戸黒の再現において古窯跡から採集した陶片が道標となったそうです。
「週刊人間国宝23工芸技術・陶芸5(2006年11月5日号)」に掲載された「伝統を自ら創造する『志野』の再現」に長瀬未左子さん(土岐市埋蔵文化財センター学芸員、当時)は、「そんな豊蔵の創作活動の傍らにあったのが古窯跡から採集した陶片であった。陶片は氏の再現への道標であり、豊蔵の創造の原点でもあった。」と書いています。
さて、人間国宝の荒川豊蔵と同時代を生きた林景正さん(1891~1988)という陶芸家、いや「陶工」がいます。
(陶芸家ではなく)あくまでも「陶工」の姿勢を貫いた林景正さんの黄瀬戸の特徴は、土岐市美濃陶磁歴史館の学芸員・鍋内愛美さんによると、家業の煎茶碗の生産に従事していた頃に身につけた薄く正確にロクロをひく技術に裏付けされた「軽さ」だそうです。
また、林景正さんの黄瀬戸の釉調は、砂をまとったようなマットな質感の所謂「油揚げ肌」のものからつやのあるものまで様々で、丸盌を、代表作とされる胴紐茶盌同様に、「抜け胆礬(たんぱん)」を強く意識して繰り返し制作しているそうです。
それでは、荒川豊蔵資料館(岐阜県可児市久々利柿下入会352番地)で撮った荒川豊蔵さんの作品とと土岐市美濃陶磁歴史館(岐阜県土岐市泉町久尻1263番地)で撮った林景正さんの作品の一部をご覧ください。
~ 荒川豊蔵・作「銘 随縁」。
~ 荒川豊蔵・作「瀬戸黒茶碗」。
~ 荒川豊蔵・作「黄瀬戸茶碗」。
~ 林 景正・作「黄瀬戸茶盌」。
~ 林 景正・作「黄瀬戸胴紐茶盌」。
~ 林 景正・作「黄瀬戸丸盌」。
志野陶片を発見した久々利大萱において 荒川豊蔵さん(1894~1985年)は1933年(昭和8年)、作陶活動を始めました。
桃山時代以降途絶えていた志野と瀬戸黒の再現において古窯跡から採集した陶片が道標となったそうです。
「週刊人間国宝23工芸技術・陶芸5(2006年11月5日号)」に掲載された「伝統を自ら創造する『志野』の再現」に長瀬未左子さん(土岐市埋蔵文化財センター学芸員、当時)は、「そんな豊蔵の創作活動の傍らにあったのが古窯跡から採集した陶片であった。陶片は氏の再現への道標であり、豊蔵の創造の原点でもあった。」と書いています。
さて、人間国宝の荒川豊蔵と同時代を生きた林景正さん(1891~1988)という陶芸家、いや「陶工」がいます。
(陶芸家ではなく)あくまでも「陶工」の姿勢を貫いた林景正さんの黄瀬戸の特徴は、土岐市美濃陶磁歴史館の学芸員・鍋内愛美さんによると、家業の煎茶碗の生産に従事していた頃に身につけた薄く正確にロクロをひく技術に裏付けされた「軽さ」だそうです。
また、林景正さんの黄瀬戸の釉調は、砂をまとったようなマットな質感の所謂「油揚げ肌」のものからつやのあるものまで様々で、丸盌を、代表作とされる胴紐茶盌同様に、「抜け胆礬(たんぱん)」を強く意識して繰り返し制作しているそうです。
それでは、荒川豊蔵資料館(岐阜県可児市久々利柿下入会352番地)で撮った荒川豊蔵さんの作品とと土岐市美濃陶磁歴史館(岐阜県土岐市泉町久尻1263番地)で撮った林景正さんの作品の一部をご覧ください。
~ 荒川豊蔵・作「銘 随縁」。
~ 荒川豊蔵・作「瀬戸黒茶碗」。
~ 荒川豊蔵・作「黄瀬戸茶碗」。
~ 林 景正・作「黄瀬戸茶盌」。
~ 林 景正・作「黄瀬戸胴紐茶盌」。
~ 林 景正・作「黄瀬戸丸盌」。
♪ 「美濃桃山陶」、美濃焼が最も輝いた時代 全4記事。完。
「美濃桃山陶」、美濃焼が最も輝いた時代 -(3)国指定史跡「元屋敷陶器窯跡」- [東美濃のミュージアム]
♪ 「美濃桃山陶」、美濃焼が最も輝いた時代 -(2)美濃桃山陶と荒川豊蔵- の続き
岐阜県土岐市泉町久尻にある国指定史跡「元屋敷陶器窯跡」は、大窯3基(元屋敷東窯1~3号窯)と燃焼室14房の連房式登窯1基(元屋敷窯)から構成される古窯跡群です。
~ 国指定史跡「元屋敷陶器窯跡」(遠景)、2020年2月23日撮影(以下の写真も同日撮影)。
~ 国指定史跡「元屋敷陶器窯跡」案内板。
~ 横から見た連房式登窯跡を覆う建屋。
~ 連房式登窯跡の最上段から下方を撮った写真。全長約24.7メートル幅2.2メートル。
~ 連房式登窯の最下段から上方を撮った写真。
「元屋敷陶器窯跡」の出土品合計2,431点が美濃窯における陶器生産の変遷が分かる史料として、2013年(平成25年)に国の重要文化財に指定されました。
さて、国指定史跡「元屋敷陶器窯跡」から歩いて5分ほどの所にある土岐市美濃陶磁歴史館において、「元屋敷陶器窯跡」などから出土した美濃桃山陶が展示されています。
次の写真は、2019年11月29日から2020年2月24日まで開催された企画展「昭和、美濃の陶工 林景正」と同時開催された収蔵品展「美濃桃山陶って何だろう」において撮影した作品です。
~ 志野向付(安土桃山時代)。
~ 鼠志野額鉢(16世紀末~17世紀初)。
~ 瀬戸黒茶碗(16世紀末、高根窯工房跡出土)。
~ 織部黒茶碗(元屋敷陶器窯跡出土、17世紀初頭)。
~ 黒織部茶碗。
~ 鳴海織部向付。
~ 弥七田織部向付(17世紀初)。
♪ 「美濃桃山陶」、美濃焼が最も輝いた時代 -(4)荒川豊蔵と林景正の作品- に続く
「美濃桃山陶」、美濃焼が最も輝いた時代 -(2)美濃桃山陶と荒川豊蔵- [東美濃のミュージアム]
♪ 「美濃桃山陶」、美濃焼が最も輝いた時代 -(1)尼ヶ根古窯 -瀬戸黒のはじまり- の続きです。
桃山時代に美濃において畿内を中心に流行した茶の湯の影響を受けて、黄瀬戸、瀬戸黒、志野、織部といった新しいやきものが誕生しました。
これらのやきものは美濃桃山陶(美濃桃山茶陶とも)と総称されており、岐阜県土岐市、可児市および多治見市の土岐川以北を中心とした地域で生産されました。美濃桃山陶が生産されたのは桃山時代から江戸時代初期(16世紀後半から17世紀前半)にかけてなので、(「桃山時代のやきもの」ではなく)「桃山様式のやきもの」と解説する専門家もいます。
さて、志野と瀬戸黒で国の重要無形文化財技術保持者(人間国宝)に認定された荒川豊蔵さん(1894~1985年)が1930年(昭和5年)4月11日、岐阜県可児市にある牟田洞古窯跡において、関戸家が当時所蔵していた志野筍絵筒茶碗「銘 玉川」と同じ筍絵の志野陶片を発見しました。荒川豊蔵さんは著書「縁に随う」(日本経済新聞社、1977年2月発行)の「志野窯発見」の項において、この志野筍絵陶片の発見について次の通り書いています。
______________________________________________________________________________
(省略)
連れだって牟田洞の谷あいに入れば、杉、雑木の林である。谷川から数メートル上、雑木の葉の散り積むあたりに陶片があると知らされ、そのところを葉かき分けて掘る。天目、鉢、円五郎(サヤ)などの陶片が出る。始めて間もない。ほの白いものを掘り出す。取り上げてみた。
志野である。
てのひらに収まるほどの小片だが、ゆずはだで、火色の小さな筍が一本描いてある。
なんと、一昨日丸文旅館で魯山人とながめた筍絵筒茶わんと同手ではないか。あれの筍二本のうち、小さい方のある部分である。
体中が、かっと熱くなる。えらいことになったぞ。口には出さぬが、心の中では、大声で叫んでいた。
夢中になった。さらに掘る。次に出たのはねずみ志野である。鉢のへりに当たる陶片だ。
(省略)
道のり十数キロ。途中で日が暮れ、満月が出る。峠道を登りながら、こんなに見事に志野窯を発見したことが、信じられないようにも感じる。まさか、キツネに化かされて、木の葉でも拾ってきたのではあるまいな、と妙な疑いも生じた。立ち止まる。峠の上であった。ポケットから陶片二つを取り出し、月明かりで、かざし見る。まぎれもない。やはり志野である。
※引用:荒川豊蔵・著「縁に従う」89~91ページ。_______________________________________________________________________________
上記の「一昨日丸文旅館で魯山人とながめた筍絵筒茶わん」とは、名古屋の関戸家が当時所蔵していた志野筍絵筒茶碗「銘 玉川」(現在、徳川美術館所蔵)のことです。
この発見により、黄瀬戸、瀬戸黒、志野、織部などの桃山陶が愛知県瀬戸市で焼かれていたというそれまでの日本陶磁史の定説が覆されました。荒川豊蔵さんは志野陶片を発見した翌日も久々利大萱の牟田洞窯跡で発掘を行い、志野の陶片を収集しています。その中に、国宝志野茶碗「銘 卯花墻」(三井記念美術館所蔵)と同じ文のある陶片、住吉手と呼ばれる志野橋文茶碗と同じ橋の文様の陶片などがあったそうです。
荒川豊蔵さんが発見した陶片の一部は現在、岐阜県可児市の「荒川豊蔵資料館」において常設展示されています。
~ 「荒川豊蔵資料館」(岐阜県可児市久々利1644-1)。
~ 荒川豊蔵さんが岐阜県可児市の牟田洞古窯跡で採集した陶片。
~ 荒川豊蔵さんが牟田洞古窯跡で採集した志野筍絵陶片。
志野陶片の歴史的発見は 、荒川豊蔵さんが当時工場長を務めていた鎌倉の星岡窯の経営者である魯山人により発表され、一大センセーションを起こしたそうです。
東美濃にある古窯は、専門誌により紹介されたことにより美濃古窯発掘ブームが巻き起こり、乱掘、盗掘が進み地元から陶片が流出することにつながった一方で、古窯跡調査から桃山陶の復興を目指す陶芸家も現れたそうです(参照:土岐市美濃陶磁歴史館発行「元屋敷窯発掘史」)。
・・・「美濃桃山陶」、美濃焼が最も輝いた時代 -(3)国指定史跡「元屋敷陶器窯跡」- へ続く。
桃山時代に美濃において畿内を中心に流行した茶の湯の影響を受けて、黄瀬戸、瀬戸黒、志野、織部といった新しいやきものが誕生しました。
これらのやきものは美濃桃山陶(美濃桃山茶陶とも)と総称されており、岐阜県土岐市、可児市および多治見市の土岐川以北を中心とした地域で生産されました。美濃桃山陶が生産されたのは桃山時代から江戸時代初期(16世紀後半から17世紀前半)にかけてなので、(「桃山時代のやきもの」ではなく)「桃山様式のやきもの」と解説する専門家もいます。
さて、志野と瀬戸黒で国の重要無形文化財技術保持者(人間国宝)に認定された荒川豊蔵さん(1894~1985年)が1930年(昭和5年)4月11日、岐阜県可児市にある牟田洞古窯跡において、関戸家が当時所蔵していた志野筍絵筒茶碗「銘 玉川」と同じ筍絵の志野陶片を発見しました。荒川豊蔵さんは著書「縁に随う」(日本経済新聞社、1977年2月発行)の「志野窯発見」の項において、この志野筍絵陶片の発見について次の通り書いています。
______________________________________________________________________________
(省略)
連れだって牟田洞の谷あいに入れば、杉、雑木の林である。谷川から数メートル上、雑木の葉の散り積むあたりに陶片があると知らされ、そのところを葉かき分けて掘る。天目、鉢、円五郎(サヤ)などの陶片が出る。始めて間もない。ほの白いものを掘り出す。取り上げてみた。
志野である。
てのひらに収まるほどの小片だが、ゆずはだで、火色の小さな筍が一本描いてある。
なんと、一昨日丸文旅館で魯山人とながめた筍絵筒茶わんと同手ではないか。あれの筍二本のうち、小さい方のある部分である。
体中が、かっと熱くなる。えらいことになったぞ。口には出さぬが、心の中では、大声で叫んでいた。
夢中になった。さらに掘る。次に出たのはねずみ志野である。鉢のへりに当たる陶片だ。
(省略)
道のり十数キロ。途中で日が暮れ、満月が出る。峠道を登りながら、こんなに見事に志野窯を発見したことが、信じられないようにも感じる。まさか、キツネに化かされて、木の葉でも拾ってきたのではあるまいな、と妙な疑いも生じた。立ち止まる。峠の上であった。ポケットから陶片二つを取り出し、月明かりで、かざし見る。まぎれもない。やはり志野である。
※引用:荒川豊蔵・著「縁に従う」89~91ページ。_______________________________________________________________________________
上記の「一昨日丸文旅館で魯山人とながめた筍絵筒茶わん」とは、名古屋の関戸家が当時所蔵していた志野筍絵筒茶碗「銘 玉川」(現在、徳川美術館所蔵)のことです。
この発見により、黄瀬戸、瀬戸黒、志野、織部などの桃山陶が愛知県瀬戸市で焼かれていたというそれまでの日本陶磁史の定説が覆されました。荒川豊蔵さんは志野陶片を発見した翌日も久々利大萱の牟田洞窯跡で発掘を行い、志野の陶片を収集しています。その中に、国宝志野茶碗「銘 卯花墻」(三井記念美術館所蔵)と同じ文のある陶片、住吉手と呼ばれる志野橋文茶碗と同じ橋の文様の陶片などがあったそうです。
荒川豊蔵さんが発見した陶片の一部は現在、岐阜県可児市の「荒川豊蔵資料館」において常設展示されています。
~ 「荒川豊蔵資料館」(岐阜県可児市久々利1644-1)。
~ 荒川豊蔵さんが岐阜県可児市の牟田洞古窯跡で採集した陶片。
~ 荒川豊蔵さんが牟田洞古窯跡で採集した志野筍絵陶片。
志野陶片の歴史的発見は 、荒川豊蔵さんが当時工場長を務めていた鎌倉の星岡窯の経営者である魯山人により発表され、一大センセーションを起こしたそうです。
東美濃にある古窯は、専門誌により紹介されたことにより美濃古窯発掘ブームが巻き起こり、乱掘、盗掘が進み地元から陶片が流出することにつながった一方で、古窯跡調査から桃山陶の復興を目指す陶芸家も現れたそうです(参照:土岐市美濃陶磁歴史館発行「元屋敷窯発掘史」)。
・・・「美濃桃山陶」、美濃焼が最も輝いた時代 -(3)国指定史跡「元屋敷陶器窯跡」- へ続く。
「美濃桃山陶」、美濃焼が最も輝いた時代 -(1)尼ヶ根古窯 -瀬戸黒のはじまり- [東美濃のミュージアム]
岐阜県多治見市にある多治見市文化財保護センターにおいて2020年1月14日(火曜日)から6月19日(金曜日)まで、企画展「尼ヶ根古窯-瀬戸黒のはじまり-」が開催されています。
~ 多治見市文化財保護センター(岐阜県多治見市旭ヶ丘10-6-26)。
・企画展名:尼ヶ根古窯 -瀬戸黒のはじまり-
・会 期:2020年1月14日(火曜日)~6月19日(金曜日)
・開館時間:午前9時~午後5時(最終入館午後4時30分)
・休館日 :土・日・祝日
・入館料 :無料
・開催場所:多治見市文化財保護センター
尼ヶ根古窯は16世紀後半、千利休が活躍していた桃山時代に現在の多治見市小名田町で操業していた大窯で、瀬戸黒が最初に焼かれた窯だと言われています。
岐阜県道多治見御嵩線の改良工事に伴い1986年8月20日から1987年1月30日まで行われた緊急発掘調査の結果、大窯3基と(神や仏に供える器を焼いた)かわらけ窯1基などが確認されています。
尼ヶ根古窯群発掘調査報告書(編集・発行:多治見市教育委員会)によると尼ヶ根古窯の概要は次の通りです。
・遺跡名 :尼ヶ根1号窯・尼ヶ根2号窯・尼ヶ根3号窯・
尼ヶ根4号窯・尼ヶ根窯工房跡
・窯の特徴:
1号窯 茶陶、皿、鉢、瓶類等を焼く。初期の瀬戸黒を焼いた窯。
2号窯 茶陶、皿、鉢、瓶類等を焼く。窯体がきれいに残っていた。
3号窯 かわらけを焼いた窯。
4号窯 茶陶、皿、瓶類等を焼く。灰志野と思われる製品が出土した。
4基の中で一番新しい窯。
・遺跡所在地:岐阜県多治見市小名田町岩ヶ根11
・時代:安土桃山時代
・主な遺構:窯体(大窯)、物原、かわらけ窯、工房跡
・特記事項:瀬戸黒の筒型茶碗が出土。
~ 瀬戸黒茶碗(尼ヶ根古窯採集)。
さて、瀬戸黒にスポットを当てた多治見市文化財保護センターにおける企画展「尼ヶ根古窯-瀬戸黒のはじまり-」においては、「瀬戸黒の変遷」、「瀬戸黒の高台」、「瀬戸黒の肌合い」などをテーマとした展示が行われています。
次の4枚の写真は、「瀬戸黒の変遷」コーナーで撮った写真です。
~ 1.初期:高台が高く、腰は丸い。楽茶碗のような見た目。
~ 2.高台が低く、腰が角張る。
~ 3.口縁などが歪みはじめる。
~ 4.線が刻まれたり、形が全体的に歪んで、作為が見られるようになる。
同企画展のパンフレットを参照すると、尼ヶ根古窯は「美濃桃山陶の礎となった窯」と位置付けられています。
岐阜県文化財図録を参照すると、瀬戸黒は次の通り説明されています。
・・・「美濃桃山陶」、美濃焼が最も輝いた時代 -(2)美濃桃山陶と荒川豊蔵- へ続く。
~ 多治見市文化財保護センター(岐阜県多治見市旭ヶ丘10-6-26)。
・企画展名:尼ヶ根古窯 -瀬戸黒のはじまり-
・会 期:2020年1月14日(火曜日)~6月19日(金曜日)
・開館時間:午前9時~午後5時(最終入館午後4時30分)
・休館日 :土・日・祝日
・入館料 :無料
・開催場所:多治見市文化財保護センター
尼ヶ根古窯は16世紀後半、千利休が活躍していた桃山時代に現在の多治見市小名田町で操業していた大窯で、瀬戸黒が最初に焼かれた窯だと言われています。
岐阜県道多治見御嵩線の改良工事に伴い1986年8月20日から1987年1月30日まで行われた緊急発掘調査の結果、大窯3基と(神や仏に供える器を焼いた)かわらけ窯1基などが確認されています。
尼ヶ根古窯群発掘調査報告書(編集・発行:多治見市教育委員会)によると尼ヶ根古窯の概要は次の通りです。
・遺跡名 :尼ヶ根1号窯・尼ヶ根2号窯・尼ヶ根3号窯・
尼ヶ根4号窯・尼ヶ根窯工房跡
・窯の特徴:
1号窯 茶陶、皿、鉢、瓶類等を焼く。初期の瀬戸黒を焼いた窯。
2号窯 茶陶、皿、鉢、瓶類等を焼く。窯体がきれいに残っていた。
3号窯 かわらけを焼いた窯。
4号窯 茶陶、皿、瓶類等を焼く。灰志野と思われる製品が出土した。
4基の中で一番新しい窯。
・遺跡所在地:岐阜県多治見市小名田町岩ヶ根11
・時代:安土桃山時代
・主な遺構:窯体(大窯)、物原、かわらけ窯、工房跡
・特記事項:瀬戸黒の筒型茶碗が出土。
~ 瀬戸黒茶碗(尼ヶ根古窯採集)。
さて、瀬戸黒にスポットを当てた多治見市文化財保護センターにおける企画展「尼ヶ根古窯-瀬戸黒のはじまり-」においては、「瀬戸黒の変遷」、「瀬戸黒の高台」、「瀬戸黒の肌合い」などをテーマとした展示が行われています。
次の4枚の写真は、「瀬戸黒の変遷」コーナーで撮った写真です。
~ 1.初期:高台が高く、腰は丸い。楽茶碗のような見た目。
~ 2.高台が低く、腰が角張る。
~ 3.口縁などが歪みはじめる。
~ 4.線が刻まれたり、形が全体的に歪んで、作為が見られるようになる。
同企画展のパンフレットを参照すると、尼ヶ根古窯は「美濃桃山陶の礎となった窯」と位置付けられています。
尼ヶ根古窯では、初期の瀬戸黒茶碗、銅緑釉の製品、志野の全段階である灰志野と考えられる製品も出土していています。尼ヶ根古窯の遺物には、同種の製品でありながら、器形や釉薬のバリエーションがあるものがあり、これらは少量ずつ見つかっているため、製品ではなく試験的に焼かれたもので、新しい技術やデザインを開発していたと考えられます。尼ヶ根古窯は従来の唐物写しの茶陶生産から離れ、それまでにない独自の新しい技術とデザインにチャレンジした窯でした。桃山の茶陶が出現する転換期に操業した窯であり、その後の時代に続く浅間窯(可児市)などの大窯で瀬戸黒、黄瀬戸、志野などが展開していく礎となった窯であると考えられます。 ※出所:企画展「尼ヶ根古窯-瀬戸黒のはじまり-」のパンフレット。下線はwattana が引いた。
岐阜県文化財図録を参照すると、瀬戸黒は次の通り説明されています。
瀬戸黒は、志野・織部・黄瀬戸とともに桃山時代に美濃で焼かれた茶陶の制作技法である。釉は土灰(どばい)(雑木を焼いた灰)に鬼板(おにいた)(酸化鉄、マンガンなどを含む天然材料)等を合わせた鉄釉で、深みのある漆黒の釉調に特色がある。昼夜を分かたずに薪をくべた白熱の窯から、速やかに挟んで引き出し、冷水に浸して急冷したときに生ずる鉄釉の輝きと深みのある漆黒の釉調は人々を魅了するが、小さな引き出し口から茶碗を裸のまま取り出す工程と、窯中での場所が限定されるという制約と、何よりも色見の選択が作品の決定的な要因となり、長年の経験と技術が混然として生まれる焼き物である。焼成途中に引き出すことから「引き出し黒」とも呼ばれ、また、天正期(16世紀後半)に盛んに焼かれたことから、「天正黒(てんしょうぐろ)」とも呼ばれる。江戸期には衰退したが、昭和初期、荒川豊蔵(あらかわとよぞう)の古窯址の発見、技法の研究によりその技術が復興された。 ※出所:岐阜県文化財図録。下線は wattana が引いた。。
・・・「美濃桃山陶」、美濃焼が最も輝いた時代 -(2)美濃桃山陶と荒川豊蔵- へ続く。