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豊蔵さんの「水月窯」・・・(3)豊蔵さんと虎渓山永保寺 [美濃桃山陶の地探訪]

・・・(2)「虎渓茶」は江戸時代の銘柄茶だった からの続き

  豊蔵さんが境内に石碑2基を建立した臨済宗南禅寺派の虎渓山永保寺は、豊蔵さんの著書『縁に随う』(日本経済新聞社、1977年2月18日発行)の「生活」の項を参照すると、荒川家の菩提寺だそうです。

■虎渓山永保寺は荒川家の菩提寺
(略)私の家の菩提寺は多治見の虎渓山永保寺である。初代美濃守護の土岐頼定が夢窓国師に帰依して興した。境内にある正和3年(1314)夢窓国師建立の観音堂と唐様の開山堂とは、共に国宝に指定されている。夢窓国師作の庭園も風趣見事なものである。  宗派は臨済宗南禅寺派、禅家である。専門道場があり、明治中期以後は、修行の雲水が常在百人と言われた。昨今は10名前後とさびれているが、私の一家が大畑に引き揚げてから戦争中にかけての間も、随分と修行僧がいた。いつも30名ぐらいはいたであろう。(略) *下線は渡邉が引いた。

■出所:荒川豊蔵『縁に随う』(1977-02-18発行)131~132ページ

豊蔵さんは、随筆家の白洲正子さん(1910~1998年)を虎渓山永保寺に案内しています。その時のことを白洲正子さんは、紀行エッセイ『かくれ里』(新潮社、1971年12月発行)の「久々利の里」の章に次の通り書いています。

■豊蔵さんは白洲正子さんを虎渓山永保寺へ案内した ・・・引用
(略)中央線に乗りかえ、多治見で降りる。と、思いがけなく荒川さんが迎えに出ていて下さった。見せたい所があるというのである。ここまで来れば、もう向こうのペースにはまる以外にない。私はだまって行くことにした。

 それは、虎渓山(永保寺)という禅宗のお寺であった。その境内の一部に、荒川さんは、「水月窯」という窯を持っていられるが、今は息子さんたちに任せて、いわば下界との連絡場所になっている。そこまでは私も何度か行ったことがあるが、お寺を見るのははじめてである。多治見の町はずれから、水月窯の前を通りぬけ、すぐ山へかかる。昔は百何十町歩、農地法でけずられた現在でも、70町歩はあるというから、よほど大きな寺なのだろう。青葉の中を行くこと10分あまり、やがて山門に到着する。山門の前を流れるのは土岐川で、水が白いのは陶土のためであるという。多治見の町は、どこを見回しても陶器の工場ばかりで、ほんとうに「焼きものの町」の感があるが、鎌倉時代にこのあたりを統べた土岐氏の名も、はじめは「土器」から出たものに違いない。(略)

 門を入ったところに、夢窓国師が植えたという大銀杏があり、その向こうに広い池がある。正面へ回ってみると、向こう岸の紅葉の中に滝がかかっており、橋を渡って本堂へ参れるようになっているのが、室町時代の水墨画を見るようである。日本にはまだこんなお寺が残っているのだ。土地の人たちには有名でも、私たちの知らない所は無数にある。何もわざわざ人ごみの中を、京都や奈良の観光寺院を見物する必要はない。(略) *下線は渡邉が引いた。
・・・引用終わり
■出所:新潮社『白洲正子全集(第5巻)』210~211ページ

縁に随う

縁に随う

  • 作者: 荒川豊蔵
  • 出版社/メーカー: 日本経済新聞出版
  • 発売日: 1977/02/01
  • メディア: 単行本


  さて、季刊『禅文化(第63号)』(禅文化研究所、1972年1月1日発行)に掲載された「荒川豊蔵さんをたずねて」と題した記事を書いた同誌編集主任(当時)の宝積玄承(ほうずみ げんしょう)さん(1937年~ )は、豊蔵さんのことを「古禅者の行履(あんり)を深く慕われるこころは一種禅者のような感じさえした」と同記事で述べています。

■宝積玄承「荒川さんは一種禅者のような感じさえした」 引用・・・
(略)志野一すじに生きる陶匠を想い、機会があれば一度訪ねてみたいと思っていたのであるが、この十一月三日、文化勲章を受賞されたのを機に、又、荒川さんが古くからの「禅文化」誌の会員であることも手伝って、突如訪問しようと思い立ったのである。(略)

 三日前、文化勲章を受賞され、東京から帰られたばかりの荒川さんは突然の訪問にも拘わらず快く面会に応じて下さった。(略)

(略)何事も因縁で、人に逢おうと思っても縁がなければ逢えない、今こうして逢うのは何かの因縁ですね、との荒川さんのことばで、すっかり気をよくし、なごやかな雰囲気の中でお話を聞くことができた。(略)

 大灯国師を語り、又虎渓山の島田菊僊老師、方広寺の足利紫山老師、妙心寺の古川大航老師との交流も語られた。
 古禅僧の行履を深く慕われるこころは一種禅者のような感じさえした
 これらの禅者から忍の精神を学び、志野一すじで不屈の精神を養ってこられたのである
 東洋の美をうたい、枯淡なさびとわびを自然のなかから学びとる荒川さんの超俗的な眼(まなこ)は、今住んでいられる大萱の人里離れた環境からもうかがうことができる。以前は電灯もなく、水は谷川の水を汲み、訪ねてくるのは小鳥と野ウサギぐらいだった。今も余り変わりはない。現代人の文化的生活とはほど遠い生活である。だがいらざるものは捨てる「大いなる放棄」こそが荒川さんを今日に至らしめたゆえんでもあろうか。焼いてはこわし、焼いては捨てる、今でも会心の作品は年に五、六個だけだと言われる。(略)*下線は渡邉が引いた。
・・・引用終わり
■出所:季刊『禅文化第46号』(1972-01-01発行)64ページ

  京都国際禅堂代表(現在)の宝積玄承さんが大萱を訪れたのは、豊蔵さんが文化勲章を受賞した1971年(昭和46年)11月3日の3日後の11月6日のことです。宝積玄承さんは、遠州奥山(現在の浜松市北区引佐町奥山)にある臨済宗方広寺派大本山「深奥山(じのうざん)方広寺」で開催された臨済、黄檗合議所の会合に参加した帰路、誰からの紹介もなく訪問の連絡もしないで大萱を訪れたそうですが、初対面にもかかわらず話が広がったことが上記記事からよくわかりました。

  宝積玄承さんが上記記事で古禅僧と呼んだ「大灯国師」は、臨済宗大徳寺派大本山「龍寶山(りゅうほうざん)大徳寺」を開山した大燈国師宗峰妙超禅師のことです。豊蔵さんと交流があった「虎渓山の島田菊僊老師」は、臨済宗南禅寺派大本山「瑞龍山(ずいりょうざん)太平興国南禅禅寺」の八代管長(329世)で虎渓山永保寺老師を兼任していた嶋田菊僊(きくせん)さん(1872~1959年)、同様に「方広寺の足利紫山老師」は方広寺三代管長の足利紫山さん(1859~1959年)、同様に「妙心寺の古川大航老師」は臨済宗妙心寺派大本山「正法山(しょうぼうざん)妙心寺」二十四代管長の古川大航(たいこう)さん(1871~1968年)のことです(※3)

(※3)臨済宗には、建仁寺派、東福寺派、南禅寺派、天龍寺派、相国寺派、大徳寺派、妙心寺派、建長寺派、円覚寺派、向嶽寺派、方広寺派、永源寺派、国泰寺派および佛通寺派の14宗派があります。

・・・豊蔵さんの「水月窯」(4)虎渓山水月窯  へと続く・・・


縁に随う

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  • 作者: 荒川豊蔵
  • 出版社/メーカー: 日本経済新聞出版
  • 発売日: 1977/02/01
  • メディア: 単行本



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