松阪市飯南町上仁柿(坂ノ下・南俣地区)の「伊勢茶」の圃場 [伊勢茶]
三重県産緑茶「伊勢茶」の産地である松阪市飯南町における茶園を調べるために、上仁柿(かみにがき)の神名原地区から坂ノ下地区へ移動しました。
坂ノ下地区は、大和国と伊勢神宮を結ぶ伊勢本街道の中で難所の一つだと言われた櫃坂峠(ひっさかとうげ)の麓にある集落です。
~ 松阪市飯南町上仁柿の坂ノ下地区のはずれにある伊勢本街道の櫃坂道と古坂道の案内板。
さて、飯南町上仁柿の坂ノ下集落において、典型的な屋敷茶園がありました。
~ 屋敷の裏が茶園になっています。
坂ノ下地区から南俣地区へ移動しました。
~ 松阪市飯南町上仁柿の南俣地区。
石積み(石垣)に茶株がありました。畦畔茶園に分類しました。
~ 石積み(石垣)にある茶株は、小動物が茶実を石積み(石垣)の間に隠したものが発芽し成長したものだという話を聞いたことがあります。実生茶。
茶山もありました。
松阪市飯南町上仁柿は、「伊勢茶」の圃場の変遷がよくわかる場所です。
坂ノ下地区は、大和国と伊勢神宮を結ぶ伊勢本街道の中で難所の一つだと言われた櫃坂峠(ひっさかとうげ)の麓にある集落です。
~ 松阪市飯南町上仁柿の坂ノ下地区のはずれにある伊勢本街道の櫃坂道と古坂道の案内板。
さて、飯南町上仁柿の坂ノ下集落において、典型的な屋敷茶園がありました。
~ 屋敷の裏が茶園になっています。
坂ノ下地区から南俣地区へ移動しました。
~ 松阪市飯南町上仁柿の南俣地区。
石積み(石垣)に茶株がありました。畦畔茶園に分類しました。
~ 石積み(石垣)にある茶株は、小動物が茶実を石積み(石垣)の間に隠したものが発芽し成長したものだという話を聞いたことがあります。実生茶。
茶山もありました。
松阪市飯南町上仁柿は、「伊勢茶」の圃場の変遷がよくわかる場所です。
松阪市飯南町上仁柿(神名原地区)の「伊勢茶」の圃場 [伊勢茶]
三重県産緑茶「伊勢茶」の産地である松阪市飯南町における茶園を調べるために、「だんだん田」で知られる深野の次に向かったのは、上仁柿(かみにがき)です。
~ 神名原川(しでわらがわ)にかかる茶屋橋。
茶屋橋の先には、バス路線から離れている住民や独り暮らしのお年寄りの通院、日常生活の支援することを主な目的とした松阪市の飯南コミュニティバス「ほほえみ」の「茶屋橋」バス停があります。
~ 飯南コミュニティバス「ほほえみ」の「茶屋橋」バス停。
さて、茶屋橋を渡り右折して、飯南町上仁柿の中出(茶屋)、神名原地区へと進みました。
~ 集落の裏に茶園が見えます。栽培放棄した茶園もあります。
~ 新しい道ができて取り残されてしまったのでしょうか? 境界、畦(あぜ)、畔(くろ)などに作られた茶園「畔畦畔(けいはん)茶園」に分類しました。
神名原地区の林道をどんどん登っていくと、砂防ダムの前に茶の木が群生していました。
この砂防ダムの横には、茶山がありました。
~ 茶山→植林→伐採を経て「茶山」に戻ったと思われます。急斜面に茶株が見えます。
飯南町上仁柿の神名原地区の次に向かったのは、上仁柿の坂ノ下と南俣地区です。
~ 神名原川(しでわらがわ)にかかる茶屋橋。
茶屋橋の先には、バス路線から離れている住民や独り暮らしのお年寄りの通院、日常生活の支援することを主な目的とした松阪市の飯南コミュニティバス「ほほえみ」の「茶屋橋」バス停があります。
~ 飯南コミュニティバス「ほほえみ」の「茶屋橋」バス停。
さて、茶屋橋を渡り右折して、飯南町上仁柿の中出(茶屋)、神名原地区へと進みました。
~ 集落の裏に茶園が見えます。栽培放棄した茶園もあります。
~ 新しい道ができて取り残されてしまったのでしょうか? 境界、畦(あぜ)、畔(くろ)などに作られた茶園「畔畦畔(けいはん)茶園」に分類しました。
神名原地区の林道をどんどん登っていくと、砂防ダムの前に茶の木が群生していました。
この砂防ダムの横には、茶山がありました。
~ 茶山→植林→伐採を経て「茶山」に戻ったと思われます。急斜面に茶株が見えます。
飯南町上仁柿の神名原地区の次に向かったのは、上仁柿の坂ノ下と南俣地区です。
三重県松阪市飯南町の「だんだん茶園」(石積み茶園)へ行ってきました [伊勢茶]
日本古典研究家の本居宣長(1730~1801)は、65歳の1794年(寛政6年)10月10日、和歌山城での御前講義のために松坂(当時は「松坂」と表記した)を出立し、和歌山街道を歩いて和歌山へ向かいました。同年12月4日に松坂の自宅へ帰宅後、本居宣長は「紀見のめぐみ」と題した歌日記を残しています。
この「紀見のめぐみ」を参照すると、和歌山街道沿いにある真言宗「大石(おいし)不動院」の不動滝について宣長は、「菅の根の長き日ならは大いしの瀧のしら絲よりて見ましを」(菅の根のように日が長ければ、大石の滝が白糸の様に流れている様を寄って見てゆくのになあ)という句を詠んでいます。
~ 「大石不動院」の不動滝、(石勝山金常寺、通称:大石不動院、所在地:三重県松阪市大石町4)。
この和歌山への旅に宣長は藩士へのお土産として「川俣茶(かばたちゃ)」(「川俣谷」と呼ばれた現在の三重県松阪市飯高町・飯南町の櫛田川流域のお茶を指す)を持参していることがわかっています(参照:「寛政六年若山行日記」)。
さて、2020年6月5日(木曜日)午前10時15分頃、松阪駅前より三重交通バス「大石行」(射和・相可高校経由)を利用して「大石不動院」へ行ってきました。
~ 「大石不動院」、三重交通バス「大石」バス停から「大石不動院」まで5分ほど歩きました。
「大石不動院」で松阪市飯南町に住む知人と落ち合い、飯南町内にある三重県産の緑茶「伊勢茶」(茶栽培圃場)を見て回りました。
最初に向かったのは、日本の棚田百選に認定された「深野のだんだん田」がある、松阪市飯南町深野です。
~ 「飯南町深野上郷案内図」。
飯南町深野地区は、「だんだん田」が有名ですが、「だんだん茶園」(石積み茶園)もあります。
~ 小規模な「だんだん茶園」(石積み茶園)。
規模の大きな「だんだん茶園」(石積み茶園)もあります。
~ 「だんだん田」の上に「だんだん茶園」、その上に「茶山」があります。
横から見ると、「だんだん(段々)」になっていることがよくわかると思います。
~ 横から撮った「だんだん田」と「だんだん茶園」。
松阪市飯南町深野の次に向かったのは、飯南町神名原(しでわら)です。
この「紀見のめぐみ」を参照すると、和歌山街道沿いにある真言宗「大石(おいし)不動院」の不動滝について宣長は、「菅の根の長き日ならは大いしの瀧のしら絲よりて見ましを」(菅の根のように日が長ければ、大石の滝が白糸の様に流れている様を寄って見てゆくのになあ)という句を詠んでいます。
~ 「大石不動院」の不動滝、(石勝山金常寺、通称:大石不動院、所在地:三重県松阪市大石町4)。
この和歌山への旅に宣長は藩士へのお土産として「川俣茶(かばたちゃ)」(「川俣谷」と呼ばれた現在の三重県松阪市飯高町・飯南町の櫛田川流域のお茶を指す)を持参していることがわかっています(参照:「寛政六年若山行日記」)。
さて、2020年6月5日(木曜日)午前10時15分頃、松阪駅前より三重交通バス「大石行」(射和・相可高校経由)を利用して「大石不動院」へ行ってきました。
~ 「大石不動院」、三重交通バス「大石」バス停から「大石不動院」まで5分ほど歩きました。
「大石不動院」で松阪市飯南町に住む知人と落ち合い、飯南町内にある三重県産の緑茶「伊勢茶」(茶栽培圃場)を見て回りました。
最初に向かったのは、日本の棚田百選に認定された「深野のだんだん田」がある、松阪市飯南町深野です。
~ 「飯南町深野上郷案内図」。
〔参考〕1999年7月に農林水産省が認定した「日本の棚田百選」の一つである「深野のだんだん田」は、認定当時のパンフレットを参照すると、「今から約430年以前(室町時代末期)から始められ当時深野上郷は北畠氏の重要な拠点であり、白猪山の西約1.5km付近に「のろし場」があり見張りの侍等が詰めており、その侍たちの食糧確保のため棚田が開墾されたといわれており、現在も水田として利用され、石積みは雑草もなくよく維持管理されている。」となっています。
飯南町深野地区は、「だんだん田」が有名ですが、「だんだん茶園」(石積み茶園)もあります。
~ 小規模な「だんだん茶園」(石積み茶園)。
規模の大きな「だんだん茶園」(石積み茶園)もあります。
~ 「だんだん田」の上に「だんだん茶園」、その上に「茶山」があります。
横から見ると、「だんだん(段々)」になっていることがよくわかると思います。
~ 横から撮った「だんだん田」と「だんだん茶園」。
松阪市飯南町深野の次に向かったのは、飯南町神名原(しでわら)です。
本居宣長「菅笠日記」10日目行程にある茶山などを訪ねました。 [伊勢茶]
三重県津市美杉町川上にある茶園(廃棄茶園、山茶園跡なども含む)を訪ねた後、伊勢本街道の奥津宿(津市美杉町奥津)、北畠神社(津市美杉町上多気)などを経由して、三重県道29号線(松阪青山線)の清水峠を越えて、松阪市嬉野小原町へと入りました。
〜 伊勢本街道「奥津宿」にある、自家焙煎スペシャルコーヒーと自家製パンのカフェ「葉流乃音(はるのん)」(三重県津市美杉町奥津1753)。
〜 茶畑を見ながらカフェ「葉流乃音」でひと休み。
〜 清水峠の津市美杉町側にある茶藪(自生している茶が藪状態になっている)。
それでは、松阪市で訪ねた茶園(廃棄茶園、山茶園跡なども含む)の一部の写真をご覧ください。
1.伊勢山上飯福田寺(松阪市飯福田町273)
〜 「飯福田寺(いぶたじ)」の山門。「飯福田寺」は大宝元年(701年)、役小角(えんのおづぬ)により開創された霊場だそうです。
〜 飯福田川の反対岸に境内茶園が見えます。
2.道標「貝坂峠-国学者 本居宣長旅の道」(「菅笠日記」道)
〜 茶園ではありませんが、本居宣長(1730~1801)が43歳の明和9年(1772年)3月5日から14日までの10日間、吉野・飛鳥を旅した時の帰路に通った道です。
3.堀坂峠付近に残る石積み山茶園跡(松阪市与原町)。
〜 かつての山茶園に植林した後、自生した茶株が見えます。
(茶山調査20200522、江戸時代の銘柄茶だった「川俣茶」を探せ!)
〜 伊勢本街道「奥津宿」にある、自家焙煎スペシャルコーヒーと自家製パンのカフェ「葉流乃音(はるのん)」(三重県津市美杉町奥津1753)。
〜 茶畑を見ながらカフェ「葉流乃音」でひと休み。
〜 清水峠の津市美杉町側にある茶藪(自生している茶が藪状態になっている)。
それでは、松阪市で訪ねた茶園(廃棄茶園、山茶園跡なども含む)の一部の写真をご覧ください。
1.伊勢山上飯福田寺(松阪市飯福田町273)
〜 「飯福田寺(いぶたじ)」の山門。「飯福田寺」は大宝元年(701年)、役小角(えんのおづぬ)により開創された霊場だそうです。
〜 飯福田川の反対岸に境内茶園が見えます。
2.道標「貝坂峠-国学者 本居宣長旅の道」(「菅笠日記」道)
〜 茶園ではありませんが、本居宣長(1730~1801)が43歳の明和9年(1772年)3月5日から14日までの10日間、吉野・飛鳥を旅した時の帰路に通った道です。
3.堀坂峠付近に残る石積み山茶園跡(松阪市与原町)。
〜 かつての山茶園に植林した後、自生した茶株が見えます。
(茶山調査20200522、江戸時代の銘柄茶だった「川俣茶」を探せ!)
「川上茶」の産地、三重県津市美杉町川上を訪ねました。 [伊勢茶]
「川上茶」の産地、三重県津市美杉町川上にある茶園(廃棄茶園、山茶園跡なども含む)を訪ねました。
津市が公表している住民基本台帳人口(2020年4月30日現在)を参照すると、美杉町の人口は4,089人、美杉町川上地区は197人です。ちなみに津市の総人口は277,066人です。
津市美杉町の津市と合併するまでの歴史は次の通りです。
・1989年(明治22年)
町村制の施行により奥津村と川上村の区域をもって八幡村が発足。
・1955年(昭和30年)
竹原村、八知村、太郎生村、伊勢地村、多気村、下之川村と合併して美杉村が発足。
・2006年(平成18年)
津市と合併し、津市美杉町となる。
それでは、雲出川の上流域にある津市美杉町川上地区で訪ねた茶園の一部の写真をご覧ください。
1)川上山若宮八幡神社の境内茶園(三重県津市美杉町川上3498)
〜 修験霊場として知られる川上山若宮八幡神社。
〜 斜面にある茶園(茶山園)。
〜 茶山園の石積み。
〜 平坦地にある在来種の茶園(畝仕立て)。
2)津市美杉町川上(下黒田地区)
〜 茶山園。
〜 栽培放棄茶園。
3)津市美杉町川上(中野地区)
〜 中野地区の遠景。手前の橋の下を流れる雲出川。
〜 津市美杉町川上(中野地区)の茶園。
(茶山調査20200522、江戸時代の銘柄茶だった「川俣茶」を探せ!)
津市が公表している住民基本台帳人口(2020年4月30日現在)を参照すると、美杉町の人口は4,089人、美杉町川上地区は197人です。ちなみに津市の総人口は277,066人です。
津市美杉町の津市と合併するまでの歴史は次の通りです。
・1989年(明治22年)
町村制の施行により奥津村と川上村の区域をもって八幡村が発足。
・1955年(昭和30年)
竹原村、八知村、太郎生村、伊勢地村、多気村、下之川村と合併して美杉村が発足。
・2006年(平成18年)
津市と合併し、津市美杉町となる。
それでは、雲出川の上流域にある津市美杉町川上地区で訪ねた茶園の一部の写真をご覧ください。
1)川上山若宮八幡神社の境内茶園(三重県津市美杉町川上3498)
〜 修験霊場として知られる川上山若宮八幡神社。
〜 斜面にある茶園(茶山園)。
〜 茶山園の石積み。
〜 平坦地にある在来種の茶園(畝仕立て)。
2)津市美杉町川上(下黒田地区)
〜 茶山園。
〜 栽培放棄茶園。
3)津市美杉町川上(中野地区)
〜 中野地区の遠景。手前の橋の下を流れる雲出川。
〜 津市美杉町川上(中野地区)の茶園。
(茶山調査20200522、江戸時代の銘柄茶だった「川俣茶」を探せ!)